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when space became a place : KSSP, KF, HK.

Wong Tsz Ying

2019.04.17 [水] - 2019.04.21 [日]
12:00-21:00 入場料:¥400(セレクト・ティー付き)

葵順街遊楽場は約6,000平方メートルの広さの公園で、葵青区のMTR葵芳駅から700メートル離れた高架道路の下にある。香港の工業地区の1つにあるこの公園は、歩行者がただ通る場所としての役割を持つだけでなく、ローラースケート用のリンク、スケートボードパーク、テーブルやベンチ、周辺の工業地域で働く清掃業者が作業用の道具を収納するスペース、全長50mのフリースペース等、公共の公園としての設備が備わっている。2010年以来、香港で起こった様々な政治的な事件の影響で、草の根活動として多くのコンサートが行われたが、この公園も複数のゲリラコンサートの場として使われた。
私の個人的な経験と長期にわたる観察によると、この公園は、主に道路の清掃作業者、宅配業者、シフトワーカーや無職の人々によって利用されてきた。多くの人々が頻繁に利用してきたわけではないにもかかわらず、園内にはどこからか持ち込まれた様々な物が散らばっており、見知らぬ人々との交流や変化を与えてくれるのを待っているようだ。十分に活用されておらず、人々を引きつけるような環境ではないが、この「忘れ去られた」空間を形作っている理由とは、一体何なのだろうか?コミュニティ活動が行われるにはどのような要件が必要なのだろうか?この場所で地域のつながりや知覚体験を生み出す要素となるものは何だろうか?
私は、1年間かけてフィールドリサーチを行い、データを集めてまとめ、葵順街遊楽場の空間的構成、設計上の特性、そして園内に置かれている物の種類や位置をマッピングした。それから、さらにアンビエント音と映像を組み合わせ、3Dの風景を再現し、様々な観点からこの場所の知覚体験をつくりあげた。
パブリックスペースで活動を行うことは、モチベーションを保つことや、人と繋がること、もっと成長したいと思うことなどのきっかけとなり、それらは空間の質を決定する欠かせない要素となる。「何かが起こるから何かが起こる。何も起こらないから何も起こらない」。ということは、 いつか「1+1=3」となる可能性もあるのではないだろうか?
空間的な計画がどのように知覚情報の受け取りに影響するかについて、より深く理解するため、アーティストは制作中に、ヤン・ゲール著『建物のあいだのアクティビティ(Life Between Buildings: Using Public Space)』を参照した。以下は、本書からの抜粋とパブリックスペースのコンセプトとして私が理解する内容である。

「現代産業社会」での空間創造では、「パブリック(公共の)」という言葉を「人々を全体として捉えること」(権威主義)、「全ての人に開かれている」(商用化)、「私的なものでない」(排除性)と捉えている。
「パブリック」という言葉の語源は、一族やコミュニティとして集団で生活する「一緒に集まる」という意味のギリシャ語のsynoikismosを起源としている。この観点で考えると、パブリックスペースは伝統的社会での「礼拝所」のようなものとして機能すべきであり、コミュニティとして集まるという要素を持つ社会的なシンボルという役割を果たす。 香港社会では「パブリックスペース」はコミュニティの末端へと周縁化され、過少評価されてきた。このようなスペースは都市開発、時間、さらには法律の隙間に挟まれた存在となっている。
至るところで進行中の大規模な建設工事や、絵のように美しい都会的なランドスケープ、視覚にうったえるデザインの数々など、現在、香港で行われている都市計画は、商業的な目的のために、美観に重点を置きすぎた結果、空間を次々と「私用化」あるいは「疑似パブリック化」してしまう。海辺の遊歩道には権威が強調されるようなデザインが施されているのに対して、コミュニティパークはいまだに時代遅れのデザインのままである。スケートボードパークには開閉時間がきっちりと決められ、使われていない土地にはフェンスが立てられ「政府管理空地」となっている。狭い歩道はゴミや建設廃材にまみれ、高架下の空間にはボロボロの椅子や枯れ枝がいくつか転がり、食べ残しやゴミのかけらが散らかり、人々の交流の場として使える可能性はほとんどない。こういった都市計画のアプローチによって、香港の空き地は、どんどん虚栄に満ちたスペースにつくり変えられてしまい、人々が集いなにかをしたり、コミュニティを育んだりする場ができるのを阻害してしまっている。
こうした「疑似パブリックスペース」が増えてしまう背景には、デザイン教育の問題や、誤った空間美学の問題がある。 屋外空間が、個人にとってどのような存在になるかは、その人にとってその空間が、社会的あるいは個人的(行動学的)にどのような重要性をもつかによるのである。つまり、あるパブリックスペースが、その近隣の人々にとって記憶に残る場所になるかどうかは、そこでのコミュニティ活動の経験の有無によるものであり、表面的な美しいデザインによるものではない。そのため「人々のための都市計画」を行うためには、まずそのスペースで様々な活動が行われ、継続できることが重要である。そうしたなかで、人々の日常生活において、出会い、コミュニケーション、情報交換を促す場になるべきなのである。
屋外空間の質や様々なアクティビティの実施(必須、任意、あるいは社会的活動の全てを含む)は、その空間の魅力を左右し、日々の生活の中で社会的ネットワークを作りだす。その場所での経験や思い出が蓄積されることによって、空間に意味が与えられ、それが人々の生活と現実の中に織り込まれる。このようにただの「スペース」は「場」へと姿を変え、本当の空間的質を帯びるようになる。
簡単に言えば、空間的質がうまれるために必要なのは、「日常的に交流が行われる美しさ」であり、「(空間の)見た目の美しさ」ではないのだ。
ランドマークとなるような建造物は、基本的に費用対効果が低く評価されるに値しない。なぜなら建築的・視覚的デザインばかりに焦点をあて、大抵、屋外空間の質に全く貢献しないからである。いくら物理的環境を精密にととのえられたとしても、空間的活動の実体や意味のつながりを理解していなければ、その知識システムはきわめて限定された機能しかもたない。結局のところそれは、細部までこだわった美学的経験にすぎないのだ。
Steinitz (1968), “Meaning and the Congruence of Urban Form and Activity”


Wong Tsz-ying 1995年生まれ。香港公開大学でアニメーションおよび視覚効果を専攻し、2017年に学士号を取得。社会がどのように構築されているのかに疑問を持っており、ストリートアート、音楽、ドキュメンタリーで表現する。実験的なムービングイメージを通して、人間と社会、バーチャルとリアリティ、時間と空間に対する私たちの認知について、そしてその背後にあるイデオロギーについて、理解を深めていきたいと考えている。

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4月21日(日)19:00~
Wong Tsz YingのOngoing AIR 滞在報告会
Ongoing AIR(オンゴーイング・アーティスト・イン・レジデンス)第32弾、
香港から来たジェスことWong Tsz Yingが見た東京、そしてオンゴーイングはどんなものだったのか。お別れパーティーをかねた報告会。

Jess Wong Tsz-ying is supported by soundpocket’s Artist Support Programme

Wong Tsz Ying

Jess Wong Tsz-ying was born in 1995. She received her bachelor degree at The Open University of Hong Kong in 2 […]