大石一貴
https://www.kazukioishi.com/ 彫刻家1993年山口県熊毛郡生まれ。東京都在住2016年、東京造形大学彫刻専攻卒業2018年、武蔵野美術大学大学院彫刻コース修了 個展2018年「10月11日に片 […]
2022.05.06[金]_ 2022.05.22[日]
水木金 18:00‒21:00|土日 12:00‒21:00(月火定休)
入場料: 400円(セレクトティー付き)
主催:Art Center Ongoing
光岡さんと二人展をすることが決まり、展示名を決めるために吉祥寺の喫茶店で2人でお茶をした。
展示のテーマは前から決まっていて、それは「重力、引力」だったのだが、数回ミーティングを重ねても実際の展示名は決まっておらず、この日は決定することを決定してお茶をした。
事前に、僕がこの展示に向けて制作中の映像作品を光岡さんには渡してあって、それに光岡さんに即興でアテレコをしてもらい、出てきたセリフで良いワードを見つけることになっていた。
「光岡さん、重力とか引力ってそこにあるはずなのに目には見えないですし、抽象的に別の言葉で言い表せないでしょうか」
だいぶ無茶に投げてしまったが、光岡さんはいつも通りの軽快さでセリフを映像に被せていた。
「あああ〜なんだこれは〜〜〜」
「あああ〜〜またこれだ〜〜」
「あああ〜〜おなじみのうごき〜〜〜」
「あああ〜、これは〜〜〜おなじみのうごき〜〜〜〜」
鉛筆や草やスプーン、石がただ回るだけのシーンになる度、光岡さんはその言葉を繰り返した。
ハッとした。〇〇くらいハッとした。
地面に足を踏み出せば前に進むし、寝転がれば床にペターっと張り付く。高い所の荷物を取るにはジャンプしてズドンと着地するしかない。重力によるお馴染みの動きで僕らは地球に転がっている気がしてきた。
すごい!!いい言葉!!決定!!!
「おなじみのうごき」
という経緯で決まった展示名です。ぜひお越しください。
2022.5.5 (こどもの日)
あとは、
どのくらいの時間を止める?空間を留めることに関係しそう。僕らは外に出たいし、外はぐるぐる回ってる。あるものとないものをくっつける。あとは離れ離れになるから受け身。
今日の光は明日には残ってない。日光は数分前の太陽の影だったり。あー反射してら、こっちを見てる。事細かに名前をあてがうことでしょう。
大石一貴
5月7日(土)19:00〜
オープニングパーティー
1,000円(軽食+1Drink+入場料)
5月14日(土)19:00〜
天体観測ディナー
1,000円(天体観測+軽食+1Drink+入場料)
オンゴーイングの屋上時で天体観測しながら夜ご飯(天候により観測できない場合があります)
5月21日(土)15:00〜
Ongoing School
1,000円(お好きなケーキ+1Drink+入場料)
中高生にもわかる作家本人による展示作品解説
キャプチャイメージ:大石一貴《公転》2 0 2 2 |タイトルドローイング:光岡幸一
本展企画:大石一貴 × 光岡幸一
2022年5月にArt Center Ongoingにて開催した大石一貴と光岡幸一による二人展「おなじみのうごき」は、「重力、引力」をテーマとして企画された。会期中に行われたイベントのひとつである天体観測ディナーはあいにくの曇天だったが、ほんの一瞬だけ望遠鏡を通して雲の隙間から月を見たとき、拡大されて鮮明になった輪郭が微かに動いているような気がして、私には月がこちらへ向かって落ちてきているように見えた。 不意に展示空間を貫く音に驚かされた。音の出どころを探してみると、部屋の隅にひっそりと置いてあったクシャクシャに丸められたミラーシート《山の欠伸》から鳴っていた。鏡が光を反射することで壁に文字が映し出される《poetry lighting》と《そういう日。》の二作品は、光岡幸一の代表作「poetry taping」シリーズの延長に位置する作品だと言えるが、過去作との大きな違いは「光」という実体を持たない素材を用いて文字が描かれているという点にある。不安定な線で描かれた癖のある彼の文字は、本来持っている「読む」という特性を拒否するかのように、暫時街の中に現れては周りの環境の影響をダイレクトに受けて容易に姿を変える。屋上に設置された《そういう日。》は太陽光を光源としているため、天候や時間帯などの様々な外的要因によって常に見え方を変化させ続けていた。突然思いがけない場所に文字が姿をあらわした時には、まるで空間の中を浮遊する昼間の幽霊を見つけたような感覚を覚えた。事実として今回光岡が使用した光や音といった素材は重さを持たない非物質であり、重力の影響を受けることがない。彼の作品は総じて「重力、引力」の不在によって、逆説的にその存在を際立たせていた。 光岡の作品とは対照的に実際の質量と体積をもって展示空間を占有していたのが、大石一貴による立体彫刻《ふたつのちから_1》《ふたつのちから_2》《惑星探査》だった。地面に置かれた強固な石の重量感と螺旋状に柔軟に曲げられたワイヤーの躍動の印象的な対比など、大石は素材が本来持っている特性を敏感に捉えて作品の効果に反映させていた。特に中心的な素材として使われていた粘土には、初めは外部から与えられた力に対して従順に形を変化させるが、乾燥していく過程で収縮率のズレによって予測不可能なヒビ割れを起こすという性質がある。ある意味では劣化とも考えられるこの変化を、大石は自身の作品の軸となる概念として許容する。会期が進んでいくにつれて、制作時に加えた力と反対方向の力が作用することで作品は徐々に剥がれて割れていった。 地面へ向かって落ちたリンゴはバラバラに砕けて元にはもう戻らない。その変化が不可逆であるという点で、時間の流れと共に世界は常に落下していると言えるだろう。だとすれば制作行為とは、たとえば重力に逆らって月へ向かって飛んでいくロケットのように、落下し続ける世界に対して力を働かせて抵抗することなのかもしれない。果たしてこの力の行使は、人間だけに許された特権的なものなのだろうか。私は、今回の展示で粘土と石の接合面が次第に離れていくのを見たとき、また太陽光の反射で浮かび上がるはずの文字がなかなか現れてこなかったとき、むしろ作品の方が私たちや世界に向かって抵抗しているかのように見えた。それは、手を離せばおのずから地面へと落ちていくリンゴとは違う。大石と光岡の作品は共通して、自分たちの与えた力に対して作品が抗う余地を残すことで、物体もまた引力や重力に逆らって自ら世界に働きかける力を持つという可能性を示していた。 月は地球に向かって落ち続けているらしい。落下する力に加えて別の力の作用が働くことで、月は地球の周りを回転し続けることが可能になっているという。前述したように私は「落下とは反復することのない不可逆的な運動だ」と考えていた。しかし、落下と反復、相反するように思われた2つの運動が、宇宙空間においては密接に結びついて共存していることを知った。ゆっくりと静かに変化=落下し続ける展示空間の中で、2つの映像作品である《引き合う力に振り回されるやつら、遠心力を頼もしく思う。》と《公転》だけが軽やかなループを繰り返していた光景を、ふと思い出した。 地球での常識が宇宙では覆されることがある。すなわち、私たちにとって「おなじみのうごき」になることで感じられなくなっていた様々な力の存在が、未知なるものとして姿をあらわす場所を宇宙だとするならば、あの展示空間は小さな宇宙だったのかもしれない。数台のモニターと小さな電球の僅かな光のみで照らされた薄暗い部屋の中で、目には見えない無数の力のせめぎ合いを私は確かに感じていた。 (Art Center Ongoing 平野遥)
https://www.kazukioishi.com/ 彫刻家1993年山口県熊毛郡生まれ。東京都在住2016年、東京造形大学彫刻専攻卒業2018年、武蔵野美術大学大学院彫刻コース修了 個展2018年「10月11日に片 […]
http://mitsuoka.info/ 1990 愛知県 生まれ2009 武蔵野美術大学 建築学科 入学2016 東京藝術大学大学院 油画科 修了 展示2012/07 群馬青年ビエンナーレ2012 入選 (群馬 […]