Art Center Ongoing

SEARCH EXHIBITION & ARTISTS

人生に時給が発生する

齋藤春佳(美術作家)

最近10年日記を買った。書店のレジ横にその存在をみとめた時は、10年後って私40歳になっちゃうじゃん…、ゾ…、と怯えて無視したんだけど、怯えても怯えなくても10年は経つ、と思い直して、5分後にレジに戻ってそれを購入した。確認はしていないけれどおそらく、怯えていても5分は経っていた。
その翌日、件の日記に”今日はOngoingでバイト”と書いたところで10年後の目になってしまって、懐かしいなあ!ってなってるその私って、もうOngoingでバイトしてないじゃん…って今の私に戻って、書く手が止まった。その文字を見る人を文字の書かれた瞬間の10年後の目に仕立て上げる仕組みを持つ紙を見る私自身の視線が、書いた現在地から10年後の私を通ってその10年前の今の私を、つらぬいていた。
バイト中の私が屈んで、その目がOngoingのオーブンを覗き込む。
ケーキが焼き上がるまであと10秒。9。8。
表示されたカウントが0になるのを待たずにオーブンを開けてしまって、竹串を刺して焼け具合を確かめる。あと160℃で5分焼くことを追加してもいいだろう。実際に重要なのはカウントの方ではなくて未来の完成したケーキであって、今はまだ無いそのケーキがオーブン及び私の動作を要請している。私がケーキを作っていると言うよりは、バターと砂糖と卵と小麦をこうしてこうしてこうすると、ケーキができてる、勝手になってるという実感が強い。ケーキに向かうカウントダウンだ。0からケーキを作っているわけではない。
今から約2年前、Ongoingは普通にキッチンのバイトを募集していて、私はそれに応募した。
自分の時間を失うのと引き換えにお金を得ているとしか感じられないバイトが嫌で、辞めて無職になっていた時に見つけたのがOngoingだった。
面接の時、生活と制作を混ぜたいというようなことを言った。
バイトから帰った夜、水色の湯に浮かぶ固形バブの欠片の人工的な色が今日見た物の中で一番きれいかも、と風呂で思って、今日自分は作品の制作をしなかったのだと強く実感した。不自然な物に触らなかった日。バブは生活に属する物だけど、その色はフィクショナルなムードを放っていた。制作には、ある程度の不自然さというか、生活との軋轢みたいなものがどうしてもあるというか必要なのかもしれないと、最近は思いつつある。
Ongoingでのバイトだって、自分の時間を失うのと引き換えにお金を得ているとも言える。でも、ケーキを焼くその行為を経験しているのは紛れもなく私で、また、想定された未来に向かう行為をしているだけの瞬間が制作中には全くないのかというとそんなこともない。砂糖を計量する時と、絵の具をパレットに出す時/パンが発酵しすぎて可愛いのを突いて笑えてしまう時と、作った立体の思いがけない動きに笑ってしまう時/大根の桂剥きの手元に集中する時と、それを思い出して描く時/バイトの時と、制作の時に頭の中で起こることが全く別だとは思えない。最近はOngoingによって奧能登やタイで展示の機会も貰ったりして、ますます、わからず、いまや、ただただ、自分の人生が続いているようにも感じる。
だけど私がOngoingにいる時間は1時間毎にカウントされている。
時給の発生が、私の人生をバイトとバイトではない時間にかろうじて区切る。
バイトという謎の特別枠からするりと入り込んで、お金まで貰っているのだから、私はもはや時間を失うどころか得していてずるいかも、ラッキーだな、とも思う。2年いただけだけれどOngoingがない場合の人生の形が想像もできない。あなたがこれを読んでいる時、もう私がOngoingにいない、Ongoingがない、私がいない、それは可能性として100年後には100%で、そこから見ると、私にとってのOngoingのありなしは、どうでも同じかもしれないけれど、ここから見る例えば凪いだ平日のOngoing、人が来て床で寝たりお茶したり歌ったり展示見たりすきずきに振る舞っている時、何度もこういう日があってほしい、ずっとこの時間が続いてほしいと願うことが、バイト中に、時々ある。