富永彩音
1992年生まれ。イギリスと日本を拠点に活動する。2019年、ロンドン大学ゴールドスミス校卒業。インスタレーションを主軸に、インタラクティブな要素を取り入れた、音と空間による作品他、彫刻、ドローイング、コラージュを展開。 […]
2026.7.8[水]_ 2026.7.12[日]
18:00-21:00(水木)、12:00‒21:00(金土日)(月火定休)
入場料: 400円(セレクトティー付き)

《昔の武蔵野》は、国木田独歩の小説『武蔵野』(1898年)を起点に、近代的風景の出現の影に忘却されたとされる前近代的な世界観の気配に焦点を当て、武蔵野の風景を再解釈したものになります。
作品は、現代の武蔵野で採った音のスケッチ群、私の想像上の昔の雑木林の音風景、葉を取り除いたモビール、殻の彫刻によって構成されます。レジデンシー期間中、残存する里山や公園などを歩いて音源を録音し、近代的な音を取り除くことで、当時の武蔵野に遍在していたであろう想像上の音の風景として再構築しました。現代の武蔵野の一角に建つオンゴーイング内に設置され、訪れる者が床に置かれた箱から伸びた枝に触れることで、喪失した風景の音色が立ち上がります。
対となる壁には、音のスケッチ群が並べられます。エンジン音、遠くで聞こえる電車、自転車、歩く音、騒ぐ声、トラックの通過音から小鳥の鳴き声。これら都市の一部と化した現在の武蔵野を構成するありふれた音を、聞こえるままに即興的に描きました。これらのスケッチ群は、現在の武蔵野を形作る環境との関わりを試みた行為の跡でもあります。
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独歩が歩いた武蔵野は、1653年に開通した玉川上水と、1722年の江戸幕府による新田開発の奨励を契機に生まれた〈雑木林〉が題材です。独歩は、それまで日本の美の形式としてみなされてこなかった林に対して美の価値を見出しました。しかし、私はその最後の章〈一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈しおる場処〉の描写において、独歩が農民の生活の中に風景を見出す場面で、前近代的な世界観の気配のようなものを感じていました。現代に生きる私にも通ずる、この漠然とした感覚の正体に少しでも近づきたくて、《昔の武蔵野》を制作してきました。
独歩の視点が前近代的な世界観の名残なのかどうか、残念ながらその対象を追えば追うほど逃げていく感覚になり、まだきちんと言語化できていません。
「田園風景は都市で生まれたのであり、田園で生まれたのではないということになる。少なくとも農民のなかで生まれたのではなかったのだ。」(オギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観』)
オギュスタン・ベルクのこの言葉を辿ると、独歩もまた風景の外にいたからこそ、雑木林に美を見出したと言えます。また現代に生きる私たちも、例外ではなく、風景の外にいる存在です。柄谷行人は『日本近代文学の起源』の中で、独歩の別小説『忘れえぬ人々』を挙げ、風景は自己の内側に見出されたものであることを論じています。つまり、独歩は風景の外にいながら、自身の内面を通して風景を見出したということになります。この行為そのものが近代的な主客の装置を介している以上、これを前近代的な世界観とは言えず、それ自身が近代的な装置が立ち上げたイメージにすぎないことになります。現代において、私たちは、内面性という装置を通してでしか、喪失したと信じる前近代性を感じることができないのかもしれません。
《昔の武蔵野》で提示される雑木林は、現在と過去の時間の狭間に〈自然としての人間〉を見出せるように、作品自体が風景として機能します。作品は、喪失した前近代へと手を伸ばそうとした私自身の試みであり、また、それは亡霊でもあるのです。
(富永彩音)
7月12日(日)19:00-
富永彩音のOngoing AIR 滞在報告会
Ongoing AIR(オンゴーイング・アーティスト・イン・レジデンス)第54弾、
宮崎からやって来た富永彩音が見た東京、そしてオンゴーイングはどんなものだったのか。お別れパーティーをかねた報告会。どなたさまもお気軽にご参加ください。
1,000円(軽食+1Drink+入場料)

1992年生まれ。イギリスと日本を拠点に活動する。2019年、ロンドン大学ゴールドスミス校卒業。インスタレーションを主軸に、インタラクティブな要素を取り入れた、音と空間による作品他、彫刻、ドローイング、コラージュを展開。 […]