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中央快速線の車窓から

山本篤(アーティスト)

何度かオンゴーイングについて、アートスペースとして、そしてコミュニティースペースとしての立ち位置を考えるような文章を書いてみたのだけれど、納得がいかなかった。
その文章は、読み手をまだ20代の若いアーティストに設定し、作品でつながることとフィジカルな空間でつながることの両方について触れていた。でも何かしっくりこなかったのだ。
私的で内輪的なことを書こうかとも思ったけれど、オンゴーイングを知らない人に読んでもらうことを考えると、そして、そういった人たちがこれから足を運んでみようと思ってくれるという目的を考えると、自信がなくなった。
そして、文章提出の締め切りを1ヵ月以上過ぎた今、仕事帰りの電車に揺られながらこの文章を書いている。
なぜ今書いているかというと、今日久しぶりにオンゴーイングに寄って小川さんとお酒でも飲もうと思った矢先に、月火が定休日であることを思い出したからだ。
この距離感が自分にとって一番リアルなので、ここを切り口に文章を書くことにする。
ターゲットと目的は一緒だ。
もう10年以上もサラリーマンとして、月曜日から金曜日まで働きながら作品を作り続けて来た。作品のクオリティーは決して高いとは言えないかもしれないけれど、定期的にオンゴーイングでの展示の機会をもらってきたおかげで制作のモチベーションを失わずにこれまで来れたのだと思う。
でも昨年、子どもが生まれて、さらに自分の時間が作りづらくなった。
作品制作と家族との時間を最上位のプライオリティーとして、次に来るのが生きるためのお金を稼ぐ仕事の時間だとすると、今までのように飲みに行ったり、映画を見たり、展覧会に足を運ぶという時間が全然確保できないのだ。
だから今の自分にとって、オンゴーイングで過ごすのはとても贅沢な時間の一つとなっている。以前はあんなに気軽に、毎週のように足を運べたのに。。。
思い出してみれば、10年前、自分にとってオンゴーイングは未来の可能性だったし、大きなアートワールドへとつながる窓だった気がする。
今はどうか。
いつの間にやら自分とってオンゴーイングは、動き続けながらも常にそこにあるスペースになっていた。
維持継続の困難さを全く理解していない勝手な思い込みだ。
2004年のオンゴーイングの前身の企画では若手扱いだったのが、いつの間にやらだんだん古株になり、昔からのアーティストとのつながりも一つの大きな家族みたいに捉えるようになっていった。
で、話は戻るけれど仕事が早く終わった夜なんかは、オンゴーイングで展示を見て、ゆっくりビールを飲みたいなんて思うのだ。
10年前に見えていた大きな可能性の予感みたいなのは失ってしまったみたいだ。
それが慣れなのか、年齢によるものなのかわからないけれど。
でも確実に希望というか要望はあって、10年前の自分のように可能性の予感を抱えている若いアーティストとやっぱりつながりたいと思ったりする。
「作品以上にリアルで、深い部分でつながることができる可能性をもったものはない」と考える自分にとって、人見知りで嘘くさい態度しかとれない自分にとって、知らないアーティスト同士が酒飲んで話して笑う必然性はどこにあるのか?とも思うけれど、でもオンゴーイングで出会ったいろんな先輩、後輩からアートを続けながら生きる「生き様」のようなものを学んで来た自分にとっては、やっぱりアートを通してつながる人間関係は、自分の人生にとってかけがえのない「価値あるもの」のような気がする。
この「価値あるもの」が、小さくなるよりは大きくなるように、もっと多くの、いろんな人たちと自然な形で知り合っていけたらいいなと思っている。
ここまで書いて、この文章がまあ一番素直に書けている気がするのでこれを提出しようと思う。
早くオンゴーイングで7時くらいからビールとハンバーガーでも注文して、小川さんといろいろ話したいなぁ。和田さんにも声をかけてみよう。