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Alternative is Over-終わりか、あるいは始まりか?

木村絵理子(横浜美術館主任学芸員/ヨコハマトリエンナーレ2017 キュレーター)

アートセンター・オンゴーイングが発足する前年、2007年の4月3日に横浜美術館で「Alternative is Over? : If You Want It!」と題したシンポジウムが開催された。パネラーとして集結したのは、シドニーの3つの異なる機関のキュレーターたち。1973年に設立された国立の写真専門美術館Australian Centre for Photographyのベック・ディーン、1980年代(施設開設は1983年)にアーティストやその関係者によって設立されたパフォーマンス専門機関であるPerformance Spaceのサリー・ブリーン、そして、同じ1983年にアーティスト・イニシアチブのギャラリーとしてオープンし、アーティスト・イン・レジデンスや展覧会を開催してきたARTSPACEのルーベン・キーハンの3名であった。国立の美術館とアーティストやキュレーター主導のアートスペース。一見、対極に位置するようにも思える機関に所属する彼らのプレゼンテーションは、しかしながら共通のパースペクティブを持っていることを明らかにした。彼らに共通する活動とは、ギャラリー内だけでなく、時にはストリートへも活動の場を拡げて、実験的かつ新たな芸術体験の場を創造すること。アーティスト・イン・レジデンスをはじめとして、アーティストの創作活動をあらゆる段階において支援すること、これら2点に集約される。そして、組織を継続運営するために、いかに安定した経営的な仕組みを積極的に取り入れていくか。
当初はアーティスト・イニシアチブの小規模な活動の場として発足した機関も、20年以上を経ると施設は大型化する。ARTSPACEとPerformance Spaceの2か所は、いずれも現在はシドニー市やニューサウスウェールズ州からの公的な補助を受けて、例えばシドニー・ビエンナーレのような国際展が開催される時には、会場の一つとしてプロジェクトに参画するなど、より公益性の高い活動を行うようになっている。
一方、国立の美術館であるAustralian Centre for Photographyは、単なる展示施設として広く一般に向けられた活動だけではなく、非営利の範囲内でありながら、数多くの写真に関連するワークショップを実施し、写真技術のために特化したスタジオ施設を一般に貸し出すなど、「広く一般」を対象とするのではなく、写真のプロフェッショナルを目指す特定の人々へ向けた教育と創作支援に力点をおいた機関としての特長も持つ。ここにきて両者は、実質的な活動内容においても資金面においても、実は同じ方向を向きつつあることが確認された。美術館がストリートへと拡張し、エクスペリメンタルな活動を希求する傾向と、アーティスト・イニシアチブなどのある特定のコレクティブが主導する機関が大型化し、なおかつ活動の継続性を求めていくようになる傾向。対極にあったはずの美術館とオルタナティブ・スペースは、それぞれの役割を拡大するうちに、いつしかその違いが解消されてしまう。こうしてこのシンポジウムは、2007年当時の状況を、そのタイトルと共に締めくくることになったのである。すなわちオルタナティブは終わりを迎えるだろうと。
それから10年、かつてオルタナティブと呼ばれた現象を取り巻く空気は大きく変化し、もはや、オルタナティブという言葉がアートシーンの中で過去のものとなりつつある。
2017年11月、インドネシアのジャカルタとジョグジャカルタで、二つのビエンナーレが開幕すると同時に、同国初となるコレクションを所蔵する近現代美術専門の美術館The Museum of Modern and Contemporary Art in Nusantara (Museum MACAN)が開館した。インドネシアの燃料商社AKRコーポインドの代表ハリヤント・アディコソモによる個人コレクションを擁する私立の美術館として、同社が建設する新しいオフィスビルの中層階に設立された同館では、「美術が変わる、世界が変わる」と題した開館記念展を開催中で、17世紀以来、20世紀後半の戦後へと至るインドネシアの美術と、アジアを中心とする現代美術を2部構成で紹介している。特筆すべきは、展示としてはわずかな資料展示だけながら、インドネシアの展覧会史を振り返る一角であった。1949年の独立までは、インドネシアにおける展覧会とは常に他者によって開かれたものであったこと、そして独立後も、為政者の意向を窺うように表現活動が様々な制約を受けてきたことが淡々と示される中、同国では、制度化された活動以上に、アーティストや美術に携わる人々が自らイニシアチブを執る活動が歴史的に重要な役割を担ってきたという事実が明らかにされる。その中で大きな役割を担ったのはビエンナーレであった。今年はインドネシア全国5都市で同時期に開催されたというほど、日本同様に国際展が盛んになりつつあるインドネシアであるが、その内容は日本とは大きく異なる。例えば最古参のジャカルタ・ビエンナーレは、1974年にジャカルタ・アーツ・カウンシルによって始められた公営の国際展であるが、初回開催時はその中央主権的な傾向から若いアーティスト達の抗議運動の対象となり、翌年から様相を一変、広く若いアーティストが参加できる形態へと変化した。その後1993年に至るまで、作家・作品を選定するキュレーターは不在で、特定の誰かによる視点から展覧会が構成されることを避ける時代が続いたという。1988年に始まったジョグジャカルタのビエンナーレも同様に、アンデパンダン展として自主参加することが前提となっていた。いずれも、1998年以降にインドネシアの民主化が進んだ後、共に2009年から、その都度組織されたキュレーターチームにより特定のテーマを設定した所謂企画展としての国際展へと変化するものの、そもそも同国には特定の機関に所属するキュレーターやマネージャーがほとんど存在しないことから、個人や小規模な組織の集合体による合意形成を元に作られたビエンナーレという印象が強い。近年はここに非営利組織の出展の方が多いというアートフェアも加わり、国際展やアートフェア、そして新参の美術館がいくつかのハブとなりつつ、アーティストやキュレーターたちによる小規模なコレクティブ同士を連結し、有機的なネットワークを形成しており、ここにオルタナティブ、あるいはオーソドックスという概念はそもそも成立しない状況となっている。
ただし、実際のところは、未だ人的なリソースが極めて限られているというインドネシアの特殊な状況が底支えしている面は否めない。ビエンナーレと同時開館した美術館MACANの開館記念展を設営したチームはジャカルタ・ビエンナーレの施工を担当したアーティスト・コレクティブであり、作品を輸送した組織は、ジョグジャカルタのビエンナーレのパブリック・プログラムのディレクターであり、いずれも会社ですらない個人の集合体として組織である。そもそもインドネシアには、アートプロジェクトを支える人材が極めて限られており、規模の大小や組織の性質に関係なく、互いに顔が見える関係性の中で仕事しているからこそ、こうした状況が成立しているともいえるだろう。しかし、これから人口減少が進んで、ほどなく公的組織が解体される時代を迎えるかもしれない日本において、人的リソースとプロジェクトのクオリティを保っていくためには、インスティテューションとオルタナティブという区別を解消し、中小の組織がそれぞれの目的を超えたネットワークを形成することでこそ、生き残っていく方策が見えてくるのかもしれない。