2008.10.15 [水] - 2008.10.26 [日]
12:00-21:00 定休:月、火
 「絶滅したと思われている未確認生物、例えばネッシーみたいな生き物が、最後の一匹だけまだ生き残っていて、もう決して出会うことのない自分の仲間を捜して広く深い海の中を泳ぎ続けている」―杯を酌み交わしながら自分が追い求める芸術のイメージはどんなものかという話をしていた時のこと、酔いが回った実の兄である格くんの口から出たのはたしかそんな言葉だったと思う。もう随分と前のことだったから忘れかけていたのだけれど、先頃開催された彼の個展を訪れた際、ふとその時のことが思い出された。

 格くんは、油絵の具を使って具象とも抽象とも言い表しがたい独特な絵画を描く。彼の絵画空間に繰り返し現れるのは、表面だけが存在し、その中身はからっぽに見える物体(のようなもの)である。それらは作品によって形態や色を変化させ、同じものは二つとして出てこない。「これは何を描いているのか?」と尋ねられている場面に何度が居合わせたことがあるが、その質問に対する明確な答えを本人の口から聞いたことはこれまでにない。ただ、最後の一匹になった生物のエピソードを思い出したのと同時に、彼が何を描いているのか、僕なりに納得がいく答えを見つけられた気がした。

 個展会場には、ここ数年格くんが描き続けて来た作品が一同に並べられていた。絵の中の物体(のようなもの)は、それぞれが別々の空や海の中を、寄る辺なく漂っているように感じられた。すぐ隣にあるのに決して交わることない、別の時空を彷徨い続ける孤独な存在。そんなことを思うと、一枚一枚の絵画に、寂しさや物悲しさを感じ、そうした感情が最後の一匹になった生き物のイメージと重なって、あの時の彼の話が思い出されたのかもしれなかった。

 ただ、格くんの絵の中に感じるのは、寂しさや悲しさといった感情だけではない。それだけでは、どこか物足りなさが残るのである。ではそれ以外に何が彼の画面の中には描かれているというのか。それを探るために、今一度あのイメージに戻ってみることにした。最後の一匹になった生き物が仲間を探してさまよい続ける、僕はその情景に、寂しさと共に、ある種の希望を感じていたのである。たとえ最終的に交わり合えなくとも、それでもなお希求し続ける存在、格くんが描き出そうとしているものはそんなものではないか。そして即ち、それは人間の存在そのものではないのかと。そう思い、今一度目の前に並んだ作品に目を向ければ、格くんの描いた一枚一枚が、人間存在をとらえた肖像画のように見えたのだった。

Art Center Ongoing
代表 小川希


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10月18日(土) 18:00~
オープニングパーティー


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10月25日(土) 19:30~
スペーシャル・シークレット・ライブ
『500% MORE SAD MAN(哀しみ5倍増しオトコ)…FROM タンジメン』

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アーティスト・インタビュー
人 生 絵 画!
小川格
聞き手=小川希

■交換不能なものづくり

小川格 今のような感じの絵画シリーズを始めたのは99年ぐらいから。それ以前は絵から離れてインスタレーションとか彫刻とか、いろいろなことをやっていました。でも一貫して自分のテーマにしてきたのは、簡単に言うと「あるものとあるものの間にある存在」ということ。僕はそもそも「言葉ってなんだろう?」ということをすごく考えていたのだけれども、93年からベルギーに留学して外国語で生活するようになって、(人と人の間に挟まれる)言葉によるコミュニケーションの問題に遭遇したりしたので、余計「間の存在」への思いを強くしたところもあると思う。それまで自分はけっこう言葉ができるほうだと思っていたんだけれども、実際は思ったよりずいぶん苦労したし(笑)。ベルギーに行く以前は、西洋のアートヒストリーを辿ってオーソドックスな勉強をしていたけど、そのうち現代に追いついちゃって、歴史を勉強しているうちは次へ次へと進んで行けば良かったのが現代へ至って参考にするべき規範がなくなって、どうしたらいいのかわからなくなってしまったような、自分を見失ってしまったような時期だった。だから留学によってリセットせざるを得ない状況になったのはいい転機だったのかもしれない。

―――テーマにしてきた「間にある存在」とは、つまり「本当の思いは伝わらない」ということ?

小川格 そういう思いはあるけど、「伝わる/伝わらない」という問題ではない。その頃は要するに言葉がテーマだったので言語学をかじったりもしていたんだけれども、やっぱり他者と自分の間にある「言葉の正体」というのは不確かなもので、自分が思ったことというのは常に完全には伝わらない。それに、他者に伝えない場合でも、言葉というのは自分の中でどんどん生成されて、変化していくもの。それはまさに人間の世界そのものだし、そこが面白いと思っていたんだよね。

―――具体的にその頃は、マンガの吹き出しをモチーフにしたインスタレーションとかをやっていたよね?

小川格 そうだね。実はあれで「あ、これでいけるかな」と思ったこともあったんだけれども、あの頃の作品というのは一種のコンセプチュアルな立体作品。いろんな人に手伝ってもらって作っていたけど、もし自分にお金があったら業者に発注して指示しても完成できた。僕にはそれがやっぱり嫌だったんだね。自分の頭の中に完成形態があったとしても、自分で手を加えなくてもその状態まで持っていける。そういうのは僕の「物を作っている感じ」として、不十分だったんだと思う。

―――満たされない感じがあった?

小川格 そう。やっぱり僕は「絵」なんだ。今の話を考えてみても、現代の絵というのは究極的に言えば最初から最後まで自分でやるもの。僕は他人に代わってやってもらえないことを制作としてやりたかった。僕は絵というのは制作過程も含めて人間存在によく似ていると思っているから、やっぱり絵に戻りたいと思って、そこで吹き出しの作品も全部捨てて再スタートした。だけどそんなに急に再び油絵は描けないので、そこからまた1年ぐらいずいぶん苦労したけど。

―――立体をやっていた頃は絵は描いていなかったの?

小川格 ドローイングしか描いていなかった。それもコンセプチュアルな部分のある作品だったから、設計図的になるんだよね。同じ吹き出しのコンセプトの絵もあったけど、それは立体作品同様、自分じゃなくても描けるかなというようなものだった。

―――その苦労からのブレイクスルーは、どうやって?

小川格 そもそも絵というのは「人に見せる」という前提があるものだけど、「人に絶対に見せない」という前提のもとで自分のためだけに必ず1日10枚ドローイングを描くということを決めて、まず100枚、10日間やってみた。もちろん10日ぐらいでは何も出てこない。じゃあ1000枚やろうと思って、さらに3ヶ月休まずにやった。それでもそう簡単には何も出てこないんだよね。ただ、800枚とか900枚とか描き上げた終盤の時期に、なんか「あれ? イケるかな?」という感じが出てきて、今やっているような感じになってきた。なんというか、やっていて面白いというか、こういう感じならいっぱい描けるなという手応えのあるドローイングが描けるようになっていったんだよね。

―――その「1000枚ドローイング」は、無心というか、今までのコンセプトとはもう全然違うノリでやっていたの? 

小川格 自己精神分析じゃないけど、後から考えると、とにかく自分をできるだけフリーにして自分にあるものを出そうとしていたというか、絵を描くということは僕が一番自分が自分であるということを忠実に出せる部分なので、そこで本当に何を出すことができるのか、勝負をしていたんだと思う。


■油絵の魅力

小川格 ベルギーに行ってからしばらくはアクリルで絵を描いていたんだけれども、そのうちやっぱり自分は油絵のほうが向いてるなと思った。

―――それはどうして?

小川格 油は乾くまでの時間が長いから、絵を動かせるんだよね。僕は今でもそうだけど、理想的にはどれだけ大きい絵でも一回で全画面を描いちゃいたい。部分を乾かして乗せてというのを繰り返して部分部分から全体を作っていくのではなく、全部が濡れているうちに仕上げてしまいたい。だけど実際はなかなかそううまくはいかないし、油以上に乾かない絵の具があったらいいなあと思うほどだけど。アクリルから油に変えた時は、また違った絵の具の性質の面白さが思い出されて「やっぱり油絵っていいなあ」という思いに浸りつつも、最初はやっぱり一発で描き上げる感じがなかなかつかめなくて、何度も何度も描き直したりして、その試行錯誤の中で新しい自分の絵の課題にも取り組んでいったような感じだった。

―――なぜそんなに「一発」で描くことが重要だったの?

小川格 一発で仕上げるということは、無意識の部分がより強く出てくると思うから。計画的に描くとなると、やっぱり以前にやっていたのと同様、完成形に向かってということになっちゃう。後から見ると、一発で仕上げた絵には、ダメな部分も見えてくるけど、その時に生きていた自分の時間が凝縮されて表現されている。だから自分で気に入っているのは「こんなのは二回やれないな」と思う絵。僕の絵に対して寄せてもらう感想には、絵そのものの質と内容という、二つの要素がある。だいたい美術をやっている人で何かを言ってくれる人は、絵そのものの出来について言ってくれることが多いんだけど。

―――それは観る人にとっては重要なところで、やっぱり絵の善し悪しの基準というものは、実は歴然とあるわけでしょう。そこを分けるラインは、一体何だと思う?

小川格 意地悪な言い方をすれば、やっぱり絵を描いたことのある人のほうが観る時の視点も多いと思う。もちろん描いたことがない人は判断できないかと言うとそんなことはないけれども、自分で描いて善し悪しを判断するという経験を持っているかいないかというのは大きな違いだと思う。あとは善いと言われている絵をたくさん見ていくことでわかっていくことが多くある。

―――芸術は比べることができないというようなことはよく言うけど、実際はたとえばスポーツのように、明白なランキング付けもやろうとすればできるのかな?

小川格 そこには当然、自分にとってのランクと共同体の中の評価の順位という、必ずしも共通しない二つの価値基準があると思うけど、日本の人は共同体のランキングを意識してしまって、何か臆してしまっている気がする。絵の好き嫌いなんて無害なことなんだから、有名無名を問わずに「これはいい/悪い」という話をもっと自由にすればいいのに。



■生成と変化、茅野から何処へ……

―――自分の絵の中で色というのは重要なファクターになっている?

小川格 そうだね。色を第一に意識しないような表現主義みたいな絵も好きだけど、絵の上に筆を置く時にはきれいに見えるかどうかをかなり考える。自分はどちらかと言うと色彩には自信がない。学生の頃にも、デッサンが全然ダメでもきれいな色の絵を描いちゃうような色感のいい人がいて、そういう人に対してすごく憧れがあった。絵の勉強という意味で僕が一番考えてきたのは、もしかしたら色についてかもしれない。もちろんただ色がきれいというだけの絵では終わりたくないけど(笑)、色がきれいだということは絵の入り口としていいことだと思うから、色は観やすいものであったほうがいいんじゃないかと。

―――現在のようなテーマで描き続けていこうというような意思というか、こだわりはある?

小川格 いや、全然ない。このあいだこれまでの約8年分の作品を集めて広い会場で個展をやったけれども(「ブルー(とか)にコンガラがって」茅野市民館、2008年5月3日~5月18日)、その際に自分でもよくこれだけ描いたなと思った。ああいう形で並べてみて、変わっていっている要素も発見したし、画題への特別なこだわりもないし、やっぱりこれからまた変わっていくと思う。僕は長野の山奥に住んでいるんだけど、最近思うのは、やっぱり自然は美しいということ。そういうものをもっと自分の絵に取り入れられないかなと思っているんだよね。

―――それはまた新しい展開だね。

小川格 具体的にはまだ何もできていないけど。僕は自称厭世家とつい言ってしまう人間です。でも僕の絵を見てくださる人の数を考えると、正直に言えば寂しく想いもする。こうして無名のままで死んでいくかと考えるとつらいけど、でも死ぬまで絵が描き続けられたならきっと最高に幸せな人生と言えるはず。まだまだ、しぶとく生きて描くよ。
(2008年9月29日、Art Center Ongoingにて収録)


小川 格 Itaru Ogawa

略歴 
1969年 東京都新宿区生まれ
1993年 武蔵野美術学園卒業
1997年 ベルギー王立アントワープ美術アカデミー修了
2002年- 長野県茅野市在住

最近の主な個展 
2001、2003年 "個展" / IHAM-Gallery(アントワープ)
2002年 "Agitou Fish(二人展)" / Gallery BROCKEN(東京)
2002-2006年 "Ongoing vol.01~05" / 旧三河台中学校ほか(東京及び神奈川)
2003年 "SL a GOGO!!" / WINDS Gallery(東京)
    "美術誕生"入選 / 八王子夢美術館(東京)
2004年 "SET04企画 Vision Quest" / Re-know(東京)
2004-2005年 "Reunited展(第1~2回)" / 佐藤美術館(東京)
2006-2007年 "Reunited展(第3~4回)" / 横浜市民ギャラリーあざみ野(神奈川)
2007年 "象(かたち)の行方" / ギャラリー82(長野)
    "NEW FINE ART LAB" / ギャラリー82(長野)
    "Art Potluck クリスマス・ギフト展" / 元麻布ギャラリー佐久平(長野)
2008年 "ブルー(とか)にコンガラがって" / 茅野市民館 市民ギャラリー(長野)